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2011年1月

2011年1月31日 (月)

「今日のお手紙」リニューアルします。

手紙舎「遅れて来た新春フリマ」にお越し下さった皆さん、どうもありがとうございました。初めての試みで反省点も多いのですが、今回の経験を活かし、1年に1度、このようなイベントができるといいな、と思っています。出品して下さった友人たち、そして、岐阜からかけつけてくれたまっちんにも感謝。

さて、本日のお手紙にも書きましたが、2011年2月3日をもちまして、手紙社のwebサイト「今日のお手紙」をリニューアルします。それに伴い、本ブログも「今日お手紙」に統合される形となります。リニューアル後しばらく、本ブログは存在しますが、その後閉鎖する運びとなりますのでご了承くださいませ。

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2011年1月27日 (木)

明日からフリマが始まります!

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いよいよ明日から、ここ手紙舎の裏の小屋にて「遅れてきた新春フリマ」が開催されます。

今朝から出品者のみなさんからの商品が続々と届き、ようやくディスプレイが終了しました。作家さんのアウトレット作品から、家具、食器、本、紙もの、洋服、古道具まで。きっと掘り出し物が見つかるはずですよ。みなさんのお越しを、心よりお待ちしています!

「遅れてきた新春フリマ」開催概要
◆日時:1/28(金)~1/30(日)の3日間 11:45〜16:00
◆会場:「手紙舎とヒバリ」裏の小屋にて
◆みなさまへお願い:できるだけマイバッグをご持参くださいますよう、お願いいたします。

お問い合わせは手紙舎まで。
tel:042-426-4383
otegami@tegamisha.com


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2011年1月26日 (水)

1/30(日)の特別ゲストはこの方!

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今週金曜日から開催される「遅れてきた新春フリマ」。日曜日だけの特別ゲストの発表です! その方とは…なんと、和菓子職人のまっちんです!

まっちんといえば、岐阜にある「ツバメヤ」にて「まぼろし」とも言われるわらび餅を作っている和菓子界のプリンス。そのとろけるようにおいしい本わらび餅と、しっとり&ふんわりの大地のどらやきを(たぶん)持って来てくれることになりました! そして、まっちん自ら販売してくれますよ。

昨年秋のもみじ市では、瞬時に完売してしまったという噂も(なにせ私たちも見ていない)。この機会をお見逃しなく!

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2011年1月25日 (火)

「遅れてきた新春フリマ」出品者発表です!

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いよいよ、今週の金曜日からはじまる「遅れてきた新春フリマ」。出品者の方々が続々と名乗りを挙げてくれましたよ。そのメンバーは、料理家、デザイナー、イラストレーター、クリエイターなどさまざまな分野で活躍している方々から、もみじ市スタッフの面々まで。その出品者をご紹介いたします!

◆「遅れてきた新春フリマ」出品者(予定。敬称略)
秋月 康(もみじ市スタッフ)
石川理恵(ライター)
石坂しづか(イラストレーター)
植松良枝(料理研究家)
江沢香織(ライター)
大江田翠(もみじ市スタッフ)
甲斐みのり(文筆家)
神定清美(もみじ市スタッフ)
古書モダンクラシック(古書店)
清水香里(もみじ市スタッフ)
トミヤマトモミ(料理研究家)
西本奈々子(もみじ市スタッフ)
葉田いづみ(デザイナー)
早川絵梨(もみじ市スタッフ)
フォトノスタルジア(クラシックカメラ店)
古道具あきすけ(古道具店)
フルタヨウコ(料理家・編集者・写真家)
水縞(文房具)
吉川紙商事(紙)
吉野友加(tico moon)
Rui(フェルト作家)
ワタナベマキ(料理家)
手紙社

ほか。

まだまだ増えるかも!  そして、日曜日には特別ゲストが!

どんな商品が集まるか…。お楽しみに!

ちなみに、写真はフェルト作家Ruiさんが出品してくれたアウトレット作品の数々。うーん、魅力的!

「遅れてきた新春フリマ」開催概要
◆日時:1/28(金)~1/30(日)の3日間 11:45〜16:00
◆会場:「手紙舎とヒバリ」裏の小屋にて

お問い合わせは手紙舎まで。
tel:042-426-4383
otegami@tegamisha.com

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2011年1月24日 (月)

本日の事務所

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おしゃれなカフェにて打ち合わせ中。
と思いきやここは足柄サービスエリア。富士宮へと遠征にでかけた手紙社一同、本日はこの場所から「今日のお手紙」更新です。

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2011年1月20日 (木)

1/28(金)~1/30(日)、フリマやります。

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1/28(金)~1/30(日)の3日間、手紙舎とヒバリの裏の小屋ギャラリーにて、「遅れてきた新春フリマ」を開催します。良いものたくさん出そうであります。商品提供者の方は、近々発表しますね。

ちなみに上の写真は、手紙舎が出そうと思っている本の一部。自分たちで言うのもなんですが、結構良い本あると思うんだよなあ。なるべく安く提供できるといいな、と思っています。

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2011年1月18日 (火)

映画『ソーシャル・ネットワーク』

ゴールデン・グローブ賞が発表されましたね。Facebookの誕生を描いた『ソーシャル・ネットワーク』が、最優秀映画作品賞、脚本賞、監督賞、作曲賞の4部門を受賞しました。ちょうど土曜日にこの映画を観たばかりなので、ちょっとその話を。

この映画は、いまでは世界最大のSNSとなったFacebookの誕生秘話を描いたものです。言い方を変えれば、アメリカンドリームが実現される過程を描いているわけですが、“そういった”部分には一切感情移入できないのです。例えば、Facebookの登録者数が100万人を超え、社員がオフィスで歓喜する場面があるのですが、一緒になって喜べない。

物語はふたつの時間軸で進行します。ひとつは、Facebookの誕生前夜から、それが社会現象になるまでの物語を時系列で。もうひとつは、その後、創始者のマーク・ザッカーバーグが被告となるふたつの裁判(の手前の弁護士を交えた示談)の場面。この裁判の原告は、まさにFacebookの誕生に協力やアイデアを貸した友人たちなので、観客は誕生の物語を追いながら「いずれ彼らが対立することになるのだな」とわかってしまう。だからこそ、“成功物語”としては感情移入できない。

逆に言えば、それは監督のデヴィッド・フィンチャーの思う壺で、そうすることによって浮かび上がってくるこの映画のテーマがあります。それは、「孤独」。主要登場人物すべてがみな、どうしようもなく孤独なんですね。

映画を観ながら観客は、マーク・ザッカーバーグに感情移入したり、共同創始者のエドゥアルド・サベリンに感情移入したり、あるいはウィンクルボス兄弟に感情移入したり、ぐるぐる回ってしまうのですが、いずれ彼らが袂を分かつことをわかっているからこそ、彼らの孤独が浮かび上がってくる(デヴィッド・フィンチャーの映像にも常に孤独感が漂っている。それは美しくて恐ろしい孤独感)。そして、その「孤独な人々」が生み出したものが、人と人をつなげるFacebookだったというのが、パラドキシカルで面白い。最後のシーンはまさにそのことを表現していて、僕はこのシーンが好きで、なんだか救われるような気持ちになりました。

孤独というものは常に僕たちの日常に横たわっていて、ときにはそれが目に入らないこともあるけれど、それはたまたま死角に入っていただけで、常にすぐそばに横たわっています。それは「良い」とか「悪い」とかいうものではなく、いつもそこにあるのだからうまいこと付き合っていかなければならない。孤独と刃物は使いようとでも言うのでしょうか。

ちょっと話はそれますが、僕は独立するまでに4社、サラリーマンとして勤めたのですが、組織というのはそれを構成する人々の数が多くなればなるほど、それに反比例するように、そのトップは孤独になって行くように感じます。Facebookが象だとしたら、手紙社はアリのたまごみたいなものですが、こんなに小さな手紙社を曲がりなりにも率いる僕にさえ、そういった孤独感は常にまとわりついているのですから、マーク・ザッカーバーグの孤独や計り知れずです。

それにしてもFacebookはなぜ日本でブレイクしないんですかね? 映画の中では「Facebookはクールだ」と言われていましたが、少なくとも日本語版(日本語版になった時)はクールじゃないですよね。インターフェイスもわかりにくいしデザインもイマイチ。思い当たる理由としてはこれがひとつ。もうひとつはプロフィール。結局はこの部分がFacebookの柱になっていると思うのですが、プロフィールを書くという行為は(特にFacebookの場合はリアルなプロフィールを書かなければいけない)、言ってみればザッツ自己表現みたいなことで、日本人は苦手なのかなぁ…。あとは英語圏ではないというところですよね。英語圏の人々にとっては「Facebookに登録していないなら友達になれない!」という塩梅らしいですが、僕たちには現状そこまでの必要性はないですもんねぇ。

このあたりどうなんでしょうか? みなさんの意見をお聞きしたいところです。

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2011年1月13日 (木)

1月16日(日)は貸切営業となります。

手紙舎とヒバリは、1月16日(日)、「表現の学校」開催のため、貸切営業となります。ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご了承のほど、お願い申しあげます。

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2011年1月12日 (水)

映画『ノルウェイの森』

お正月休みの最後の日に、『ノルウェイの森』を観に行きました。セソコも以前書いていましたが、観たいような観たくないような気持ちだったのですが、生憎、他に観たい映画が見当たらず。

既にこの映画を見た周囲の評価は、「良かった」と「良くなかった」に二分される感じで、これは原作が発売当時、それを読んだ人々が「直子派」と「緑派」に真っ二つに分かれていたのとなんだかよく似ています。やれやれ。

勿体ぶっても事態は好転しないので僕の感想を言ってしまうと(まだこの映画を観ていない人で、しかしこれから観ようと思っている人は念のためこの先は読まないでください。僕の言葉があなたの幸せな映画鑑賞の時間に影響を及ぼすほど力があるとは思っていないけれど)、原作の行間に漂っているムゥドが、うまく映画の中で表現されているなあ、と感心しました。とはいえ、原作を読んだのは四半世紀近くも前のことなので、はっきり言えばあまり覚えていないのですが、映画を観ていて、こんなセリフがあったような気がするなあ、主人公のワタナベはこんな男だったよなあ、と自然に思えてきたのです。トラン・アン・ユン監督は言うまでもなく日本語を母語としない方で、その彼が、日本語の細かいニュアンスや間を、どうやって演出したのだろうと不思議にさえ思いました。

画も僕は好きで、じめっとした退廃的な空気の中に耽美な光が浮かび上がるような映像は、ずっと観ていても飽きない感じ。いちばん好きなシーンは、ワタナベが直子の部屋でふたり、向かい合ってヨーグルトか何かを一緒に食べるシーン。幸せの隣に絶望がある感じ。何もかも許せて、全てを許せない感じ。どうしようもなく日常な感じ。

しかし観ていてどうにも解せないシーンがあって、それは直子が死んだ後、ワタナベが海岸で泣き叫ぶシーン。こんなシーン原作にあったかな? と思い、映画を観た後、書店でその部分だけ立ち読みをしたのですが、あったのです。確かにワタナベは、直子が死んだ後、ひとり、ウイスキーを飲みながら海岸を彷徨っている。しかし、原作では大声で泣き叫んではいない。僕は映画の中で泣き叫ぶワタナベを見て、どうにも違和感を感じたのです。

このシーンとそれまでのシーンが共犯関係にあるからこうなったということはわかるのですが、もっとほかの方法はなかったのかと。あるいは、何か別の意図があったのか? いや、もしかしたらトラン・アン・ユン監督によるフェリーニの『道』へのオマージュなのか?

まあ、こんな詮索めいたことに時間を費やすのも映画の面白いところで、原作と見比べたりするのも楽しく、全体として好きな映画でした(YMOのおふたりやイトイさんがカメオ出演するお遊びも好き)。

え? 原作と離れたところで観たらどうだったかって? よう離れられまへん。

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2011年1月11日 (火)

リトルプレスって何?

木曜日から日曜日にかけて、京都~香川~徳島~高知と旅をして来ました。京都では、恵文社の店長である堀部篤史さんと「リトルプレス」をテーマに対談をさせていただきました。この対談は3月発行予定の石川理恵さん(著書に『展示・ものづくり はじめの一歩―小さな発表会をひらこう』)の新しい著書に収録される予定なのですが、対談前の数日間、リトルプレスのことばかり考えていたので、まとめておこうと思います。

「リトルプレス」の定義は曖昧です。おなじようなニュアンスを表すものとして「自費出版」や「ミニコミ」や「ZINE」という言葉がありますが、それらとの境界線は非常に曖昧です。しかし、それぞれ別の言葉が存在しているわけだから、それぞれ意味があるはずです。では、リトルプレスの定義とは? 僕はこう考えます。「リトルプレスとは4つのリトルを満たす出版物である」と。4つのリトルとは何か?

1. 発行部数がリトルである
2. ページ数がリトルである
3. 編集部がリトルである
4. 体裁がリトルである

4つめのリトルは、「小さい」という意味のリトルではなく、「かわいい」という意味のリトル。つまり、雑貨的かわいさや美しさをもった本という意味です。

こう考えて行くと、ひとつの本が思い当たるはずです。『アルネ』です。2002年に創刊されたこの本は自費出版やミニコミ誌の枠の中に入り切らない独特のムードを持っていて、今考えてみると、リトルプレスという言葉はこの本のために生まれたのではないかとさえ思えてきます。実際、この本が創刊された後、「アルネのような本=リトルプレス」が雨後の筍のごとく出て来ます。その多くは、堀部さんの言葉を借りれば「共感型」のコンテンツを柱とし、共感を獲得するために作り手(編集・発行者)がフィールドとしたのは「暮らし」でした。「私が暮らしの中で出会った素敵な人・モノ・コトを、読者の人にも素敵だと思って欲しい」。それこそがこれらのリトルプレスの基本理念だったように思います。

しかしやがて、その多くは撤退を余儀なくされます。 採算がとれなかったから、と言ってしまえばそれまでなのですが、「同じようなものが作られ過ぎた」のです。アルネのようなリトルプレス(しかし、内容的にも流通販路的にもアルネを超えられない。また作り手が大橋歩”ではない”)がたくさん出現したことにより、共感の価値が薄まったのです。それがわかりやすい形となって僕たちの前に提示されたのが2009年12月、アルネの休刊です。ありていに言えば「共感型リトルプレスブーム」の終わりと言えます。

逆にいえば、このブームの時代を過ぎてからも発行され続けているリトルプレスこそが、今後のリトルプレスの方向を指し示しているとも言えます。結論から言ってしまいます。僕は、これからのリトルプレスに必要とされるキーワードは「偏愛」だと思います。単なる「愛」がつまったものは、そこらじゅうにたくさん落ちていて、いつでも拾い食いができるので、もうお腹いっぱい。リトルプレスを商品として考えたとき、コンテンツのボリュームに対して、その価格は決して安いものではないので、もっと研ぎ澄まされたもの、もっと特化したものが読みたい、見たい。他では読めないものが読みたい。作り手の偏愛が見たいのです。

そういう意味で、アルネなき後、今のリトルプレスの代名詞となるような本が3冊あります。1冊目は『てくり』。盛岡のお店や作り手を丁寧に取材し、美しい写真と文章で綴るこの本から見えてくるのは、まさに「盛岡への偏愛」。2冊目は『murren(ミューレン)』。「街と山のあいだ。」をテーマにしたこの本から見えてくるのは「山や自然への偏愛」。たとえば7号の特集テーマは図譜。いいでしょう、この偏愛っぷり。2冊とも「4つのリトル」の条件を満たしていて、心地良い偏愛がある。競合誌がなく、本としての完成度が高い。現在発行されている中で、代表的なリトルプレスと言っていいと思います。

もう1冊忘れてやしないかって? 忘れていませんよ。3冊目は『ユルリナ』です。ご覧になったことがある人も多いと思いますが、この本は「共感型」の本と言えます。しかし、完成度がとても高い。ブームなどには関係なく良いものは残る、という事実を体現している本と言えます。毎号特集主義で作られるこの本は、それぞれの情報が信頼できるもので(という風に見える)、独自の視点を持っていて、最初から最後まで絶妙にパッケージングされている。洗練はされているけれど手づくり感があり、良質の一冊の絵本を読んだときのような読後感が残るのです。そして、実はユルリナにも偏愛は漂っている。それは、暮らしに対する偏愛。「毎日、なんとしてもかわいく、楽しく暮らしたいんだ!」という気合のようなものが本全体から漂ってくるのです。

この時代、メジャー雑誌の編集長でさえ、自分が好きなように本を作れるわけではありません。広告部や販売部からの圧力もあり、総合的に”危なくない”本が出来上がる場合が多いのです。一方、リトルプレスは、隅々まで自分が作りたいように作れる本。他の人には負けない、ある対象への惜しみない愛を注いでいる本こそ、僕たちは読みたいと思うのです。

対談のときには話ができなかったのですが、「自分ならこんなリトルプレスを作りたい」というテーマでいくつかアイデアを考えてみました。

1. 漬物をテーマにしたリトルプレス(日本中の田舎に行って、地元のおばあちゃんに教わった漬物のレシピなどを紹介する)
2. 漫画家リトルプレス(毎号ひとりの漫画家を徹底的に取材する本)
3. 珍しい、しかし興味深い、物語性のある職業の人を取材するリトルプレス(クラフト・エヴィング商會の『じつは、わたくしこういうものです』のノンフィクション版みたいな)
4. 東京をひとつの地方として捉えたリトルプレス

どうですか? 読みたいものありますか? とはいえあくまでアイデアとして考えただけで、いま、これらの本を死ぬほど作りたいわけではないので、実現性は薄いのですが。

それよりも最近僕が注目しているリトルプレスの話を…おっと、その話は石川理恵さんの本の中に出てくると思いますので、どうぞお楽しみに。

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2011年1月 7日 (金)

高松にて思う。

香川県に来ております。ただいま高松市内のホテルにて、このお手紙を書いています。お昼に入ったうどん屋さんの壁に村上春樹のサインが貼ってあったのを見つけて、「そうだ。今日のお手紙は、お正月に観たノルウェイの森のことを書こう」とさっきまで思っていたのですが、「それはまた別の話」にしたいと思います。

つい先ほど、高松市に先月オープンしたばかりの「まちのシューレ963」に行って来ました。オープニングパーティに招待していただいたのに残念ながら行けず、今回京都を訪れるついでに(?)、足を伸ばしてみたのです。

まちのシューレ963は、香川県内の複数の企業が出資した社団法人を運営母体とする商業施設。生活雑貨、食材、カフェ、ギャラリーがひとつの場所に併設されています。この施設全体をプロデュースしたのが、くるみの木のオーナーである石村由起子さん。香川県は石村さんの出身地なのですね。

まだオープンしたばかりなので、事前情報をほとんど持たずに訪れたのですが、いや、すごいや。「大人の力」を見せつけられた感じ。たとえば手仕事の生活道具を販売しているスペースには、内田鋼一さんや島るり子さんの器が普通に置いてあるし、食材の販売コーナーには、香川県内の選び抜かれた食材はもちろん、奈良県を始めとした全国のそれがたくさん並んでいるし、カフェでは赤木明登さんの器がさりげなく使われているし、ギャラリーでは中村好文さんが音頭をとった「欲しかったモノできた展」の再展示をしているという塩梅。すごいでしょ?

自分が(仮にも)雑貨屋を営んでいるのが恥ずかしくなって来たのですが、逆にいえば、いつまでも追いつけない背中がそこにあるというのは、悪くないものです。

僕は、いつかは田舎で暮らしたいと思いながらも東京という街が好きで住んでいるのですが、その大きな理由は、情報の量が多いこと(賑やかなこと、という理由もあります)。ここでいう情報とは、単なるinformationだけではなくお店や人なども含んでいるのですが、じゃあ情報の量はともかく、質に関してはどうかといえば、必ずしもベストのものが東京にあるわけではないと、最近よく思います。たとえば僕にとってベストの本屋さんは京都にある恵文社だし、ベストのカフェは…東京のカフェではないことは確かです。今日、まちのシューレに行って、またその思いを強めた次第。面白いな、地方。

「コンチクショー、俺(私)もやってやるぜ!」と刺激を受けたい人は、ぜひ、まちのシューレ963を訪れてみてください。

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2011年1月 5日 (水)

仕事始め。

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あけましておめでとうございます。
手紙社も本日より仕事始め。まず最初の仕事として、今年の年間スケジュールを確認しました。
黒板に書き出してみると、やるべき仕事で黒板が埋め尽くされるという…
楽しみがいっぱいの一年がスタートです。

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2011年最初のお手紙を皆様へ

あけましておめでとうございます。2011年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

新年最初のお手紙は、twitterでもちょっとつぶやいたお話です。「今日は死ぬのにもってこいの日」という本がありましたが、「年末年始は人生を噛みしめるのにもってこいの日々」ですよね。ゴールデンウィークや夏休みだとこうは行きません。年末年始のお休みにだけなぜか、「私の人生、このままでいいのかしら?」とか、「俺が”本当に”やりたいことって、何だろう?」なんてことを考える。これは、「終わり」と「始まり」がほぼ同時にやって来るこの季節だからこそ起きる現象なのかもしれません。

「今年こそ自分が本当にやりたいことをやるんだ!」と、このお正月に決意を新たにした方もいるでしょう。素晴らしい。しかし、多くの場合、数カ月も過ぎるとその決意は、「日常」という名の雑踏の中に紛れて消えてしまうものです。 それはなぜか? 僕はこう思います。「本当にやりたいこと」というのがどうも怪しい。本当にやりたいことならば、お正月に決意せずとも”やっている”のではないか。そもそも、「本当にやりたいこと」なんていうものは存在するのか?

例えばあなたは、今日の晩ご飯は何を食べたいと思っていますか? ハンバーグ? 焼き魚? カレーライス? うどん? パスタ? いろいろと食べたいものが思い浮かぶでしょう。でも「本当に食べたいものは何ですか?」と聞かれたら、ちょっと困ってしまいませんか? 「どれかひとつに決めなければいけないのなら、うーん、パスタ」と、最終的にあなたは言うはずです。

これと同じことが「やりたいこと」にも言える気がするのです。パスタも食べたければ、焼き魚もカレーライスも食べたいような気がするのが僕たちです。だから、「本当にやりたいことをやるべきだ」みたいなロジックには惑わされないほうがいい。「やりたいこと」というのはかなり移り気な奴で、その時の状況によってさまざまに変化するのです。ならばそれを楽しむ。とにかく今晩はパスタを食べてみる。結果的に、食べたパスタがまずかったとしても、それはやがて、血となり、肉となるのです。

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